百聞は一見に如かず

誰もが知っている故事・ことわざ・言い回しに「百聞は一見に如(し)かず」という言葉があります。

ひゃくぶんは、いっけんに、しかず。ですね。

意味は、読んで字の如くなのですが、大辞林で調べるとこうあります。

人から何度も聞くより、一度実際に自分の目で見るほうが確かであり、よくわかる。
Yahoo!辞書(大辞林)より

「聞く」だけでなく、実物を見ないで「読む」だけにも通じる言葉でありますね。

最近、多いですね。
百聞ばかりで物事を判断しようとする人。
一見、すなわち一度見るだけで状況がわかるのに、面倒くさいのか、そういう物事の見方を知らないのか、とにかく、百聞どころか一聞だけで、物事を判断してしまう輩(やから)。

世の中は、とかく、疲れることが多いな、と思える瞬間でもあります。

この「百聞は一見に如かず」という言葉は、『漢書』の「趙充国伝」に出てくる言葉です。「趙充国」というのは将軍です。その趙充国将軍のお話に出てきます。

漢文(白文)で書くと「百聞不如一見」。高校に行った人は、漢文を習うので「レ点」を知っているはず。なので、「百聞不如一見」が「百聞は一見に如かず」と読むというのはわかると思います。

この趙充国将軍が、ある反乱を鎮圧せよという命令を受けました。鎮圧するためには、相手がどれくらいの勢力なのか、反乱の規模はどれくらいなのか、地理状況はどうなのか、軍事的行動を起こすので色々と聞く、色々と言ってくるのですが、とにもかくにも指揮官である自分の目で状況を(現実を)直接確かめなければならない、そこで発した言葉が「百聞は一見に如かず」なわけです。

「趙充国伝」の通りに説明すると、反乱を鎮圧せよと命令した皇帝の使者が「反乱の勢力はどれくらいか?それを鎮圧するには、こちらの兵力はどれくらい必要か?」という問いに対し「百聞は一見に如かず。軍事は現地を遠く離れては計りがたいものなので、直接私(趙充国)が現地に赴いて地形を調べ地図を書き作戦を立てます」と答えています。

これが「百聞は一見に如かず」の語源というか故事来歴です。
漢文(白文)だとこうなります。

「将軍度羌虜何如、當用幾人?」
「百聞不如一見。兵難踰度。臣願馳至金城、図上方略。」

この故事来歴から転じて「人から何度も聞くより、一度実際に自分の目で見るほうが確かであり、よくわかる」という意味で「百聞は一見に如かず」となるわけです。

先にも書きましたが、「聞く」だけではなく「読む」にも該当する言葉ですね。十人いて、十人違うことを言う。十人違う報告書を書く。どれが本当でどれが偽りか。どれも本当でどれも偽りかもしれない。

物事には、すべからく表と裏があり、多面性がある。
ある人の報告なり見方は、ある一面。複数人いるなら、複数人の見方がある。

ある判断を下さなければならない場合、やはり直接判断する、決断する立場の人が自分の目で確かめることにより、それら複数の点を線に繋ぐことができる。

百回聞くより、一回見た方が確かである。と、まぁ、当たり前のことなんですが、そういう言葉ですね。
百回読むより、一回見た方が確かである。という意味でもあるわけです。

面白いのは、この人口に膾炙した「百聞は一見に如かず」ですが、その先があります。
出典の「趙充国伝」には、この先まで書いてある。

これまた、「そうだよなぁ」と納得できる言葉で、この先がなかなか人口に膾炙していないのが残念なんです。古代中国というか、あの時代の中国の英雄は凄い人ばかりだなぁと感嘆せずにはいられません。

漢、それも前漢の宣帝の頃なので、紀元前の話です。凄いですね。宣帝は在位紀元前74年-49年ですから、軽く2000年以上も前の話です。

で。その先というのは、これは慶應義塾大学の塾長が2003年大学通信教育課程入学式式辞の中で述べられていますので、それを引用します。

ところがその『趙充国伝』にはさらに先があります。百聞は一見に如かずだけれども、一見しただけでなく、将軍趙充国はその場所に1年ほど滞在して、いろいろな経験を積みました。兵隊も屯田兵としてその場所にとどまりました。紀元前60年頃の話だと言われています。伝説かもしれませんけれども、そういう話がある。「百聞は一見に如かず、しかし、一見はさらにいろいろなことを経験し、体験するに如かず」ということであります。

もしかしたら過去記事のどこかで書いているかも知れませんが、私は「百聞は一見に如かず」だけれども「百見は一験に如かずだ」とよく言います。この場合の「一験」は「経験」であり「体験」です。

ちゃんと同じ事があったんだな、と。引用文に従うなら伝説かもしれませんが、とにかく、物事を判断するには段階というものがあるのは確かだな、と。

空手を例にとると、空手の稽古はきつい、と言ってもイメージできない、実際の稽古を見てみる、少しはわかるかもしれない、でも実際に体を動かして体験・経験すると、最初に言った「稽古はきつい」の意味がわかるはず。

という意味での「物事を判断する段階」です。

この例えでも意味がわからないとなると、もう私には物事を簡潔に例える術(すべ)はなく、コミュニケーション不可!とさじを投げるしかない(笑)

聞く・読む→見る→経験・体験する、の段階で分からない人はいないと思うんですが、なんか、いそうですね(笑)
そういうお利口さんが。

長々と「百聞は一見に如かず」について書いてきましたが、要は、物事の多面性を理解するには、聞く・読むだけじゃ不完全ですよ、と。そういうことです。

見ることは簡単なのです。経験・体験することも、自分に勇気があれば簡単なのです。その簡単なことをせず、百聞といわず、一聞だけで判断する危険性を知らない人が、最近は多いんだなと自戒の念を込めて書いてみました。

いたるところに現代の趙充国将軍はいるんだな、とか思っていましたが、案外違うんだな、とも(笑)

そうそう。ついでに。
「ノブレス・オブリージュ」という言葉があります。

意味は野暮なので書きませんが、なんつうか「ノブレス・オブリージュ」という言葉や価値観の意味は知らなくても、その意味するところは経験や体験から理解している人はいる!と思っていましたが、これも案外違うんだな、と(笑)

夏目漱石の『草枕』の冒頭を思い出さずにはいられないですね。

智(ち)に働けば角(かど)が立つ。
情(じょう)に棹(さお)させば流される。
意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。
とかくに人の世は住みにくい。

1000円札の人ですよ。夏目漱石って(笑)


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