前回の記事と同様で、今回の記事も空手とは全然関係ない記事です。まぁ、全然関係ないってわけでもないですが、稽古風景であるとか大会であるとか、そういう意味での空手関係の内容ではないです。
私事で恐縮ですが、先週の土曜日に身内に不幸がありまして、先週末から今日までバタバタとしておりました。ぶっちゃけ祖母が永眠したのですが、この祖母も昔から井上雄一朗を知っており明治生まれなのにフルコンタクト空手がどういうものであるのか理解していた、希有な年寄りでもありました。
先週の金曜日に武蔵ヶ丘道場に私も顔を出し、みんなと汗を流しましたが、その夜に、日付は変わっていましたが病院から電話があり、危篤だと。
午前4時過ぎでしたね。稽古の後、井上雄一朗と色々と道場についてや稽古内容や各道場生について、あーでもない、こーでもない、あーだ、こーだと話していて「サウナでも行きますか!」と目をギラギラさせて言っていたので「なんかもう疲れたよ、ちょっと横になる」といって横になっていたのですが、井上雄一朗が話しかけるもんですから全然眠れなくて、もう朝になるじゃねぇかよ!とか思っていたら電話の音。
すぐ祖母の件だとわかりましたね。ずっと入院していて、それは井上雄一朗も知っていたので彼も厳しい顔になり、私が「ばあちゃんだな」と呟くと「そうですね」と。
電話口に向かった時には、既に姉がでていて、話しぶりから祖母の件だと確認できました。心肺停止したのですぐに来てくれとのこと。最初は私も病院に駆けつける予定で、井上雄一朗が車が足りないだろうから送っていくつもりだったのですが、なんせ祖母は高齢(96歳)、最後だなと確信したので私はその後に対処するために自宅に残ることにしました。
「なにかあれば連絡下さい。すぐ動きます」という言葉を残して井上雄一朗は戻っていきました。
結局、祖母は午前4時55分永眠。享年96。大往生。
それからバタバタとあれやこれやの段取りなどで忙しくしていて「ああ、日曜日は井上雄一朗と一緒に少年部の運動会を見学する予定だったけどキャンセルになっちまったなぁ」と思いつつも、昔の小学校の運動会といえば早朝からの陣取り合戦が激しく、祖母はゴザをかかえて場所取りに命をかけていたなぁと、えらく昔のことを思い出したり。
昼頃に井上雄一朗から電話があり、そういえばあいつは心肺停止という情報しか持っていなかったなぁと思い出したので「ダメだったよ。今日が仮通夜で明日が通夜、明後日が葬儀。場所はあそこで時間はこう」と一通りの予定を告げ、井上雄一朗からお悔やみの言葉もらい電話を切ったのですが、珍しく短い電話だったなぁと。
土曜日は仮通夜。代継橋道場稽古日でしたね。日曜日が通夜で午後7時からだったのですが、この日は少年部の運動会。大変盛り上がったそうで、運動会終了後は代継橋道場に場所を移し大宴会。
道場に泊まってプチ合宿。それも空手の稽古なしのプチ合宿。井上道場らしいな、と。私も参加していれば、いいTipsのネタになったんですが、参加していないので葬儀の話。
通夜には、井上雄一朗は一族総出で列席して下さいました。井上道場公式サイトなんで私の個人サイトじゃないんですが、ありがとう、と御礼を書いてみる。通夜の席で、明日も来ますので、と翌日の葬儀にも列席することを告げ井上一族は帰っていきました。
月曜日が葬儀。午後1時から。
私は祖母に育てられたので、いわゆるおばあちゃん子なのですが、弔辞を読んだ姉が言葉に詰まって全然話さない姿を見て号泣していて、その姉に喪主であるオヤジももらい泣きして、もう何がなんだかわかんない状態になっていたのですが、ご焼香の時に井上雄一朗の姿を見たらなぜか涙が止まったのはなんでだろうと今でも不思議な気持ちです。
それは、予想外の後輩も葬儀に列席していたからだろうなと。先輩もですが。井上雄一朗が、祖母逝去の報を空手関係者に連絡していて、内弟子時代から何も指示せずとも先を読むことに長けていて、一歩先二歩先の動きをしていたので、変わってないなぁと。そういう思いがあったからだろうなと。
もうずいぶんと昔のことですが、内弟子時代私の同期はひとりもいませんでした。わたしのみ。あとは後輩になります。空手の世界では、軍隊と同じで先任制度があり、先に入門したものが先輩で年齢は関係ありません。帯の色も関係あるのですが、先に入門した方が帯の色も上なので、まぁ、先に入門したものが先輩でいいですね。そういう意味で私の同期はいなかったと書いています。同じ年齢のものはいましたが、道場では先輩で、これはこれで結構辛いんですよね。
そして、当時は一日に何十人と入門していた黄金時代で、内弟子もたくさんいました。淘汰されて残った人数は少なかったのですが、いわゆる少数精鋭。海千山千の一癖も二癖もある後輩ばかりなんですよ。笑います。なんでおまえらなんだよ!ってな話で。
井上雄一朗をご存じな方はわかると思いますが、井上雄一朗みたいなのがゴロゴロいて、かつ井上雄一朗を倍にしたような後輩がゴロゴロいた時代なんですよ。辛いのわかるでしょ、私が。ここ笑うとこですよ。そういうやつらをまとめなきゃいけない。『仁義なき戦い』の金子信雄かよ!と。
面白いことに、立場上先輩なんですが、細かいことを指示した記憶がありません。あーやってこーやってと最初に指示したことはありますが、その先は井上雄一朗らは、自分で考え自分で行動していたんですね。そして、常に先を読んで行動していたので、上の立場の私は楽、とても楽。辛い反面、楽でもあって、それが普通と思っていました。
社会人になり、組織に属して「ああ、あいつらは違ったんだな」と実感しました。一話して十理解するものもいれば、十話して一しか理解しないものもいるわけで、そういう意味では、彼らは一話して十理解するもの達だったんだなぁと。私は、十聞いて一理解する方でしょうね。
そんなことを祖母の葬儀でボォーと思いながら、ご焼香の列を眺めていたわけです。
井上雄一朗も亡き私の祖母に合掌。
葬儀に列席しているのに気が付かなかったのですが、極真館菊水道場の木下雄一朗先生も「小さなマーク・ハント」な姿を見せてくれくれました。ありがとね。祖母知らないと思うんだけど。
過去記事「第4回ペガサスカップ練成大会のCATVオンエア」で12歳頃の木下雄一朗先生の姿を紹介しましたが、基本的には全然変わっていないですね。
井上雄一朗と名前が同じな、私にとっては「頑張っている、もうひとりの雄一朗」です。この間、故大山倍達先生来熊時にお父上が大山先生とツーショットで写っている写真をあげたけど、ちゃんと渡したかい?
過去記事で書いた大分での初試合のビデオは、どこかにあるはず。急遽審判をすることになって井上雄一朗に撮影を頼んだので(撮影中の証拠写真もある)、どこかにあるはずだけれども、まだ見つけていない。ビデオの山に埋もれているか、誰かに貸したか?そのどちらか。山のようにビデオがあるので、本気で探すのが面倒だというのは、ここだけの秘密。
そして、健真会館の糸永師範もありがとうございました。あの伝説の駐車場稽古時代、祖母も元気でよく話していましたよね。時は確実に流れていきます。あの「ねんたわれた」と言っていた姪っ子も来月花の17歳です。
葬儀も終わり、夜自室で休んでいると、どこかで聞き覚えのある車の音。姪っ子が「雄ちゃん来たよ」と言っていたので玄関にいくと、玄関先で井上雄一朗立ち往生。亡き祖母に供える御神酒を両手に携え登場です。選手コース稽古の終了後直行してくれたみたいで。
そして霊前に線香を上げて帰って行きました。祖母も「雄一朗、酒持って来てくれたかい」と喜んでいるに違いない。
井上道場Tipsなのに、個人的なネタで「公私混同だ!」と叱られそうですが、まぁ井上道場なのでいいかな、と。
今度の日曜日は、いよいよ西日本空手道選手権大会です。選手のみなさん頑張りましょう。誠武館スタッフもお疲れでしょうけど、大会を成功させましょう。と、強引に空手の話に持っていって終わりにします。
膝が痛いです。