懐かしい話-秋岡塾 塾長秋岡勝之

秋岡塾塾長の初陣井上道場公式サイトの「師範紹介ページ」に、友好団体として秋岡塾と誠武館について記載していますが、秋岡塾の秋岡勝之塾長に関する懐かしい話でも書いてみようと思います。

秋岡塾長は「師範紹介ページ」の通り、井上雄一朗の極真時代の先輩で、井上道場発足後は指導者の先輩として別の角度から指導や助言を頂いている「空手」を通じて得た息の長い先輩のひとりであります。

井上道場の道場生からみれば、3月度昇級審査で審査をしてくれた先生のひとりが秋岡塾長ですね。

そして、私からみれば、かつて同じ釜の飯を食べ、共通の先生に鍛えられた戦友のひとりでもあり、人生という物語を振り返るとき、必ず登場する人物でもあります。

井上道場公式サイト構築にあたって、埋もれていたビデオやアルバムを引っ張り出し「昔の写真やビデオは結構あるから、使っちゃおう」と井上雄一朗が空手を始めた頃の素材を探したのですが、その中にも秋岡塾長に関するものはたくさんあって「これも、いつかは使おうな」と話していました。

写真はともかく、20年以上も前からビデオで試合や稽古を撮影し、稽古に資するものにしていたのは、熊本という地方としては私らが最初でした。当時のビデオカメラはVHSのフルカセットタイプで大きくて重い。固定しない場合は肩の上に載せてテレビカメラマンのような姿で撮影したものですが、それでも重い!とても重い!

なので、三脚で固定して撮影していたのが思い出されます。このVHSフルカセットタイプのビデオカメラと三脚は、古い熊本のフルコンタクト空手関係者なら、絶対に覚えているはずです。

そして、このカメラを使いこなしていたのが私と井上雄一朗。審判などで撮影出来ないときは井上雄一朗にまかせていたので、完璧に使いこなすスキルを身につけていました。その井上雄一朗も、セコンドなどで撮影できない場合は、さらに後輩に使い方を教えていました。

審判をしていて、セコンド陣に井上雄一朗がいるのを確認して「あれ?撮影頼んだのに何故そこにいる?」といっつも思ったものです。要領がいいわけです、昔から。

そんな記録ビデオが山のようにあり、これは自分自身の動きというのは自分ではわからないので、とても役にたち、また指導する側も映像を見返して指導するポイントの確認にもなったので有効活用できました。

井上雄一朗は、熊本におけるビデオを利用した稽古補助の第一世代になります。なので、井上道場では、未だに試合よりも稽古の動きを記録するわけです。このTipsでも動画として記事にしていますが、単なる記念映像として記録しているわけではなく、稽古の一つ、指導する井上雄一朗が適切な指導を行うために資する目的で記録しているのです。

閑話休題。
秋岡塾長の話です。

そんなビデオを利用した稽古補助より以前の映像があり、これは秋岡塾長の大会初陣の映像なのですが、22、23年前のものです。黄帯ですね。高校生の頃です。

少なくとも、記憶する限りでは熊本県で開催された初のフルコンタクト制空手のオープントーナメント大会時です。3月でした。今の環境と比べると、時代を感じさせますね。

ジョイントマットではなく、会場の体育館そのままの板張りの上で試合を行っています。スリップして転倒しても、どこか痛めちゃうって環境です。現在の一般部と同じく素手素足です。現在の高校生はサポーターなり、フェイスガード着用しての試合になりますが、当時は高校生でも素手素足で試合を行っていました。

緊張感があるので、打ち身などはありますが、我々自身がこの環境で大きな怪我をしたという記憶はありませんね。臑や拳や内小手外小手もちゃんと鍛えていましたから。

現在のように道場がどこにでもあるというわけではなく、空手をやりたいやつが自分ですすんで入門する時代だったので、やる気のある人間が頑張っていた頃です。これが当たり前の環境だったので、環境については、常設道場が欲しいなぁというくらいで、あとは別になにも思わず稽古ばかりしていた頃です。

そんな時代の秋岡塾長の画像を貼り付けます。実際は映像です。動画です。それを画像にしています。古い映像なので、画像にしても写りは悪いですがご容赦を。

秋岡塾長(左)の若かりし頃1 秋岡塾長(左)の若かりし頃2

秋岡塾長(左)の若かりし頃3 秋岡塾長(左)の若かりし頃4

秋岡塾長(左)の若かりし頃5 秋岡塾長(左)の若かりし頃6

秋岡塾長(左)の若かりし頃7 満員御礼だったりして

左側が秋岡塾長です。対戦相手も同門です。井上雄一朗のこれまた先輩で、同じ中学出身だったりします。試合前、一週間くらい前でしたでしょうか、出場選手が集められゼッケンが配布されました。出水小だったかなぁ。

誰と同じブロックになるのか?誰と戦うのか?当時高校生ですから、それはそれは緊張する瞬間だったというのを覚えています。当時は試合自体が少なかったですから。1年に1回もない時代です。

覚えているのは、秋岡塾長とT君が続きのゼッケンでお互い困ったような顔をしていた姿ですね。私もゼッケンを貰って一緒に稽古していた内弟子仲間と続きだったので「いきなりおまえとかよ!」と思った記憶があります。私の場合は、ブロックが違っていたので結局対戦しませんでしたけど。

画像ではわかりませんが、映像では、もうガチガチやってます。秋岡塾長。現在の選手の方が技術的には高レベルです。指導体系や指導方法が試行錯誤されある程度確立されているし、かつ練習道具は発達しています(セパレートミット、中ミット、大ミットなどのキックミット等)ので、現在の選手の方が細かい技や戦い方を指導されている分スマートな戦い方をします。

これは時代を比較するとナンセンスなことなのですが(古い時代があり、試行錯誤を経て現在があるという観点から)、ガムシャラであるとかガッツという若者特有のエネルギーから見ると、もう鬼の形相でガチンコしています。

秋岡塾長は、極真時代、Iという大山倍達先生の内弟子出身の先生の指導を受けています。私も受けています。I先生は竹山晴友さんの一期下になります。竹山晴友さんも熊本で指導されたことがあるのですが、それは別の機会にでも書こうと思います。

そのI先生は当時大山先生の内弟子を卒業されて間もない頃で、武蔵道場を担当されていました。熊本市内でも指導されていましたが、武蔵道場だけは独特の雰囲気の中での稽古でした。総本部というか大山道場の雰囲気のある稽古内容だったと記憶しています。

フルコンタクト空手ルールは、極真ルールとも呼ばれ、安全性を担保した故に人口に膾炙したものですが、その武道性云々については議論のあるところで、そして、その議論はこの記事の主旨とは違うので書きませんが、その極真ルールにとらわれない稽古を行っていたのが武蔵道場。

現在の熊本県のフルコンタクト空手道場は極真系がほとんどですが、その武蔵道場出身で後進の指導を行っているのは秋岡塾だけです。武蔵道場出身で現在でも空手の世界に身を置くのは秋岡塾長のみ。武蔵道場唯一の生き残りですね。

当時、私の自宅から武蔵道場は熊本市内の道場よりも近かったのですが、熊本市内で稽古している内弟子仲間との稽古があったり、既に指導もしていて(その指導していたひとりが井上雄一朗)、武蔵道場にでは出稽古で数回いっただけと記憶しています。

武蔵道場では、こんな稽古をやっているのか!
と驚愕した覚えがあります。

I先生は熊本市内道場でも指導されていたと書きましたが、内弟子稽古というのもあって、いま思うと熊本市内道場と武蔵道場で違うメソッドの稽古内容を指導され色々と試行錯誤されていたんじゃないかと。

武蔵道場に対する対抗心はあって、仲が悪いという意味ではなく、切磋琢磨するという意味ですが、熊本市内道場の内弟子は声には出さないけれど武蔵道場生を意識していましたね。

秋岡塾長は、実家が遠方にあったのでより近い武蔵道場で稽古していたと思うのですが、武蔵道場のひとりとして熊本市内道場生は意識していましたね。当時、井上雄一朗は合同練習などで顔を見る先輩のひとりとしてしか意識していなかったのではないでしょうか。

武蔵道場と熊本市内道場をかけもちで稽古しているCという内弟子がいて、このC君は秋岡塾長の刎頸の友なのですが、私にとっても刎頸の友であります。このC君というのは井上雄一朗を倍にしたくらいの元気がある男で、研究熱心な男でもありました。

ある日、武蔵道場の話をしていて、C君があっちではこういう稽古をやっている、こっちはこういう稽古をやっているという話の中で「秋岡はノートにとって自主練もやっている」というヒトコトがありました。

通称秋岡メモ。巨人の星の左門豊作状態なのですが、情報が少なかった時代、教えて貰ったことを忘れないように当時はメモをとったりノートに書き付けていたんです。それを秋岡塾長もやっていると。

このヒトコトは熊本市内内弟子を刺激しましたね。負けられないと。私もノートというか稽古日誌はつけていたので「そうだよなぁ」と思っていたのですが、他の道場生にはいい刺激だったみたいです。

恐らく、今でも当時の秋岡メモは秋岡塾長は残していると思います。I先生の指導内容ですね。金的攻撃や目潰しの方法がたくさんあるはず。裏技とかも指導されていましたからね。

熊本市内道場は夕方が学生中心のクラス(武道館)、夜が一般部中心のクラス(各小学校体育館)で学生一般合同の土曜日を除くと学生クラスの方が稽古回数が多く、また内弟子稽古などを含めると、当時の一般部の人は習っていないことを当時の学生(特に内弟子)は多く習っています。

その最たるのが武蔵道場。
そして、その生き残りが秋岡塾長。

今回紹介した画像は、秋岡塾長が黄帯の頃で武蔵道場でガンガン稽古していた頃のものです。他にも秋岡塾長に関する画像はたくさんあります。黄帯の頃は坊主頭の学生ですが、その後ある道場で私が指導することになった時に秋岡塾長もその道場に来てくれました。

これはとても助かりました。同じI先生門下できついことを耐えてきた仲間であるし、少年部と一般合同な道場だったので少年部を見ている時には、どうしても一般部は見られないことがあり、そういう時は秋岡塾長が指導してくれましたから。I先生に教わった同門なので、安心して「お願い!」と言えましたね。

その当時のことは別の機会にでも書いてみようと思います。
十代後半から二十代にかけての若くて、ちょっと髪型なんかに気を使っている秋岡塾長な頃。

ひとつ思い出しました。秋岡塾長とある道場を指導していた時に、道場が使えない日がありました。当日に使えないとわかったので、道場生も来ているし困ったなぁと思っていて、一番近い別道場まで出稽古しようと、別道場責任者に連絡すると「いいよ」という返事。

私と秋岡塾長の車に道場生を乗せて出稽古に行きました。道場生も合同練習時くらいにしか顔を合わせない他道場生と稽古していい経験になるだろうくらいしか思っていなかったのですが、秋岡塾長が「せっかく出稽古に来たのでガチンコしましょう。同じ道場だとどうしてもなぁなぁになる部分があるので、一度試合以外で思いっきりやらせましょう」と言ってきました。「そうだね。最後に組手やらせよう」ということになり、責任者の方にも、せっかく出稽古にきたので対抗戦みたいな感じで組手させて下さいとお願いしたら快く承諾してくださいました。

道場生に「組手やるから、勉強してね」と話している横で秋岡塾長が念入りにアップしています。「あれ?なにをしているのだろう?」と思っていると「全員のばしましょう」と。

おまえもやんのかい!

次に出稽古の相談をしても断られるようになったというのは言うまでもありません。

武蔵道場出身者ですから。秋岡塾長。
携帯電話がない頃の懐かしい話です。

書いている途中で色々と思い出してきました。
秋岡塾長は基本稽古の時から、わざときつくなるように稽古していたことや練習量が多い熊本市内内弟子に負けないように工夫して稽古していたこと。

機会があれば、また書こう。

その後、秋岡塾長はさらなる自己鍛錬のために、他の道場や他の競技で稽古を始めます。秋岡塾を開設したと聞いたのは、当時横浜に住んでいた私と一緒に稽古していたC君から。

武蔵道場当時の事を思いだし、C君とあれやこれやと談義したのが懐かしく思い出されます。

秋岡塾は井上道場と同じく「統一世界武道空手道連盟」の常任理事で、毎年12月にクリスマスカップという大会を開催しています。継続はチカラですね。

■空手道 秋岡塾 公式サイト

ちなみに秋岡塾長初陣の画像を貼り付けていますが、私も出場していたりします。
左足だけ使う
この時、I先生は入院中でしたね。

そして、青帯だった井上雄一朗は、なぜか客席で観覧中でした。
これは関係者だと笑うところなんですよ。

ってなことで。


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